この物語の主人公「安田専一」は『安全専一』にちなんでいるのですか?という質問をいただきます。
勿論、その通り!です。物語のなかでも、岩橋が安全専一について「日本で最初の安全運動に用いられたキーワード」として解説しています。
それでは、『安全専一』に関連して、もう少し補足させていただきましょう。
1911年(明治44年)に古河合名会社足尾鉱業所長に就いた小田川全之(おだがわまさゆき)は、そのころ米国で拡がり始めていた「Safety Fast」というキャンペーン用語を「安全第一」と訳すことも検討しましたが、熟慮の末「安全専一」と訳して「安全専一」活動を始めました。1915年(大正4年)には、足尾鉱業所において保安の心得として『安全専一』が労働者へ配布されました。(平成23年に日光市が復刻版を出版しています)
一方、1915年から1916年にかけて米国ほか6か国を視察した逓信省(ていしんしょう)の内田嘉吉(うちだかきち)は、米国でSafety Fast活動が大々的に展開されているのを見て、工業化時代を迎えつつあった日本に必要な施策だと考え、帰国後、小田川全之等に協力を要請し、1917年に安全第一協会を設立して「安全第一」活動を始めました。
ここでもうひとりの人物が大きく関わります。蒲生俊文(がもうとしぶみ)という東京電気(現在の東芝)の方です。蒲生氏は1914年に同社の庶務課長をしていましたが、その時悲惨な感電死亡事故が発生しました。亡くなった夫の前で泣き崩れる奥さまを見て大きなショックを受けた蒲生は、工場内に日本初の安全委員会を設置するなど、以降、産業安全活動に尽力し、安全第一協会の設立にも協力しました。
安全第一協会は、その事業のひとつとして安全第一に関する博物館の設置を目指しましたが、財政的に困難であったことから、その代わりとして1919年に「災害防止展覧会」が開催されました。これが日本初の安全週間であり、その際に蒲生が考案した『緑十字』(りょくじゅうじ)がシンボルマークとして採用されました。安全第一協会はその後の変遷を経て、今日の中央労働災害防止協会へとつながっていきます。
『安全専一』に話しを戻しますが、その「はじがき」で小田川は、「外へ出ると7人の敵がある」という故事にちなんで「負傷の敵」となる7つとして、地震、雷、火事、親父の4つに加え、風、水、自分を挙げ、自分が一番恐ろしく、また多いと述べています。そして、最後に「危険に負けるな、危険に勝て」とし、「危険は注意をもって打ち破ることができ、注意は諸君の頭の中にある」というようなことを述べています。
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