8月のお盆の時期を迎えると、あの事故のことを思い出してしまいます。
1985年8月12日、羽田発大阪行きの日本航空123便(B747SR-100)が、群馬・長野両県境付近にある御巣鷹山に墜落し、乗員・乗客520名が死亡し、4名が重傷を負うという、世界の航空史上において単独機による最大の惨事から37年が経過しました。事故原因は、1978年6月に同機が伊丹空港で起こした尻もち事故で機体後部を損傷させた際にボーイング社が行った後部圧力隔壁の修理ミスだとされていますが、自衛隊機(模擬弾)との関連が疑われるなど、いまだに多くの謎が残されたままです。
事故原因に疑問が呈されるのは、同機の航跡は事故発生直後から東京航空交通管制部のレーダーモニタ上に記録されており、墜落地点は直ぐに判明したはずのところ、地点不明の状態が長く続き、救援機の発進が遅れたこと、また、墜落後、米軍が直ちに救援機を発信させようと滑走路上でエンジンをスタートしたにも関わらず、離陸が許可されなかったことなど、不自然なことが数々あるからです。
2000年、事故から15年の時効を迎えるにあたり、CVR(コクピット・ボイスレコーダー)の一部が生音声で公開されました。この事故の関係者が、事故を風化させまいとして、ダビングテープを民放へ送ったとされています。
この事故では、すべての油圧系統がダウンし、飛行を制御するすべての舵がコントロールできない状況に陥りました。調整できたのはエンジン出力ぐらいでしたが、コクピットクルー(機長、副操縦士、航空機関士)は最後の最後まで操縦をあきらめませんでした。
日本航空がCRMを導入したのは1986年でしたから、123便の事故はCRM導入前に発生しています。CVRの音声をCRMの視点から見てみると、機長(元海上自衛隊のパイロットで事故当時49歳。指導教官)と副操縦士(当時39歳。機長昇格訓練生)、航空機関士(当時46歳。機関士部門教官)の間の会話が少なく、航空機関士は時々自分の意見を提案していましたが、副操縦士は機長の指示に従うばかりであり、良好なチームパフォーマンスが発揮できていなかったという印象を受けます。しかし、誰も経験したことがない異常な事態であり、このクルーたちを批判することは誰にもできないでしょう。
123便の事故から4年後、1989年7月にユナイテッド航空(UAL)の232便(DC-10)がすべての油圧を失う事故に見舞われました。コロラド州デンバーの空港を離陸した同機は、1時間7分後の巡航中に尾部搭載の第2エンジンが爆発し、飛散したファン・ディスクにより3つあるすべての油圧系統が破壊されました。この結果、日本航空123便と同様、舵による操縦は不可能になりましたが、3名のコクピットクルーは、たまたま乗り合わせていた同社の路線審査担当機長と協力し、残された唯一の手段である左右2つのエンジン出力を調整することで、スー・シティのスー・ゲートウエイ空港まで同機を導き、滑走路へ接地させることに成功しました。296名の乗員・乗客のうち、185名の命が救われました。
この事故の報告書では、「あのような状況下でUALの乗員が示したパフォーマンスは、高く評価でき、論理的予想をはるかに超える」と称賛されています。
CVRの記録からは、コクピット内の会話がとても積極的であり、油圧喪失に対する手順、解決方法、行動順序、緊急着陸の方法などが議論されていることが確認でき、機長は左右エンジンの推力調整を路線審査担当機長に任せ、自らは全体の把握と総括的指揮に務めていました。
事故調査委員会は、クルーの相互の協力を、UALで10年間実施されてきたCRMの成果として評価しました。
123便とUAL232便では機種や垂直尾翼損傷の有無などの違いがあり、また、232便のクルーは123便の事故を踏まえて全油圧喪失という事態について学んでいたことから、同列に扱うことはできませんが、232便の事故は、CRMの重要性とその成果を示す事例だと言えるでしょう。
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