物語の中で、入社3年目の山田が、定期点検に入った2号機の現場で燃料系統の弁を閉める操作を行うべきところ、運転中の1号機でその操作を行い、1号機がトリップ(非常停止)してしまうトラブルが発生します。私自身は対象ユニット(号機)あるいは対象機器(例えばA号機とB号機)を間違えるエラーは経験したことはありませんが、このようなエラーは稀とはいえ実際に発生します。私が新入社員の頃、ベテランの先輩について現場巡視(パトロール)に向かった際、その先輩が本来1号機へ向かうべきところ、2号機へ向かって歩き始めました。何か用事(例えば、担当号機ではないものの、前日まで別の号機を担当していた場合に気になる機器の運転状態を念のため確認しに行くなど)があるのかな?と思ってしばらくついていきましたが、特に用事はなさそうでした。そこで思い切って「先輩、今日は1号機ですよね?」と確認したところ、「アッ!間違えてた」といったこともありました。その先輩はつい先日まで2号機を担当していたのでした。
発電所では対象ユニットを間違えるエラーを防止するため、さまざまな対策をしていますが、その一つが物語の中でも出てくるとおり、ユニットごとに色(ユニットカラー)を定めて、そのカラーで号機表示をするというものがあります。私がH発電所の4,5号機の建設試運転を担当した際、この2つのユニットは同一メーカー製の双子だったため、先々ユニットを間違えるようなエラーが起きることを懸念し、タービン・発電機のケーシングカバーに幅20センチぐらいのユニットカラーをぐるりと一周塗装してもらいました。しかし、物語の中にも出てくるとおり、機器の一部にユニットカラーで表示するぐらいでは、対象ユニットを間違えるというエラーを完全に防ぐことはできず、ユニット全体をユニットカラーで塗り分けるぐらいのところまで徹底しなければ効果を上げることはできないのです。それは物語の中で心理学者の巨橋(こばし)が指摘したように、発電所の中はさまざまな色で溢れているからです。スイッチや電源のランプ表示は「レッド」と「ブルー(グリーン)」、「オレンジ」などがあり、配管は内部を流れる流体で色分け(例えば、水素はレッド、アンモニアはオレンジなど)されていて、弁も制御に使う圧力や流量を検出するものは、レッド、ピンク、ブルーなどが使われています。勿論、それぞれの色使いには意味があります。
このようにカラフルな現場の中で対象ユニットを間違えないようにするため、私が勤務していた発電所では、物語の中で出てくるように、指差呼称の際、「オレンジ5号・・・」のように号機の前にユニットカラーをつけて呼称するという方法を発案してくれた人がいました。ユニットカラーを呼称することで「ユニットカラー」すなわち「対象ユニット」をより強く意識することができるなどの効果があるのです。
さて、それでは本日の本題である「五感」に話しを進めていきたいと思います。「五感」とは物語のなかで紹介しているとおり、視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚のことです。私たちは新人の頃に「現場では五感を使え」と繰り返し指導されました。さすがに巡視で味覚を直接使うことはありませんが、そのほかの4つはフル動員する必要があります。さらには、触覚に含まれるのかもしれませんが、足から伝わってくる振動、肌で感じる温度や湿気も重要です。たとえば、蒸気が建物内のどこかで漏れていると、ほんの微かですがモワッとした感じが一瞬することがあります。一瞬と書いたのは、建物に入った瞬間にアレ?と感じる程度で、すぐに違和感がなくなってしまうぐらいの感覚だからです。物語のなかでは「空気の質」と表現しました。聴覚についても経験と慣れが必要です。なぜなら、発電所の建物内はポンプやファンなどさまざまな機械の動作音、配管の中を流れる流体の音などが四方八方から聞こえてきます。ですから、騒音の渦の中にいるようなもので、新人のうちは何の音かはまったく分かりませんし、大きな音に意識が向きやすいので、小さな音などは聞きわけることができません。私が新入社員のころは、無線は使われていませんでしたので、現場では「1号巡視、榎本君」のようにページング放送で自分の名前が呼ばれると受話器のあるところまで行って中央制御室と会話する必要がありましたが、最初の頃はページングで誰が呼ばれているのかまったく分かりませんでした。これが経験を積むことによって、どの機器や配管からどんな音が発せられているかがわかるようになり、いつもと違う音が混ざっているとすぐに気が付くようになります。このようにして、五感を使う術を身に着けることによって、それらを同時に働かせることによる相乗効果が生まれ、それは「第6感」へと高まっていくように思います。
ところが、物語のなかで示したとおり、マニュアルで巡視の順番や点検項目が細かく定められ、その遵守が求められると、新入社員たちはマニュアルを覚えること、そのとおり巡視することに意識が向いてしまい、「五感を使え」と教えられていても、その能力を高めることができなくなって(後回しになって)しまいます。「意識レベル」のところで紹介したとおり、人間は集中力を長時間維持することはできませんから、1時間半から2時間かかる巡視の間中、高い集中力を必要とする五感を働かせ続けることはできません。このため、人間の感覚を総動員する「五感を使う」は巡視のなかで強弱をタイミングよく使い分けることが必要になると考えられますが、その強弱の付け方も含めて五感を使う能力だと言えるのではないでしょうか。例えば、ベテランになると意識的に五感を研ぎ澄ますことをしていなくても、ほんの少しの違いで「いつもと何かが違う」と感じ取り、そこから五感をフル動員して異常を見つけ出していきます。
さて、近年ではITやIоTなどのデジタル技術の進歩、低価格化に伴い、発電所の現場でもロボットによる巡視が導入されるようになりつつあります。果たして、巡視ロボットは人間の五感を超越しているのでしょうか? それはまだ少し先のことかもしれませんが、人間の五感を補完するかたちでデジタル技術を活用することは、とても重要なことだと思います。
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