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レジリエンスエンジニアリングー1



レジリンスエンジニアリングの提唱者、エリック・ホルナゲル氏は、2004年10月にスウェーデンのある町で開催されたエキパート会合でレジリエンスエンジニアリングが誕生したと述べています。2022年の今年で18年を迎えることになります。私がレジリエンスエンジニアリングに感心を持ったのは、10年ほど前のことだと思います。しばらくして、私が企画委員を務めている産業安全対策シンポジウムにおいてもテーマとして取り上げてみましたが、その当時はまだ、ヒューマンファクターズの研究者や、業界では航空や医療の分野の方に関心が高まりつつあったものの、その他の一般産業ではほとんど知られていなかったように思います。その理由のひとつに、当時はレジリエンスエンジニアリングの理論的な側面が先行し、実践論(どのように実際の現場へ落とし込んでいくか)が後回しになっていたことが考えられます。

レジリエンスエンジニアリングでは、安全の捉え方、向き合い方について、従来のものをSafety-Ⅰとし、新たな考え方としてSafety-Ⅱを提唱しているのですが、ここではまず、この安全の捉え方、向き合い方の変遷について考えてみたいと思います。

私が勤務していた新名古屋火力発電所の1号機(1~6号機はすでに廃止済み)が運転を開始したのは昭和34年(1959年)でしたが、その建設状況を記録したビデオ映像を見たことがあります。高所で行われるボイラー建屋の鉄骨組立や、重量物のタービンローターを吊り込む作業などですが、高所作業でも足場は設置されておらず、安全帯も使われていませんでした。ヘルメットは一部の作業者がかぶっているものの、大半はノーヘルであり、作業服を着ず上半身裸同然の作業者もいました。労働安全衛生法が施行されたのは昭和47年でしたから、その十数年前ということになります。その当時は安全は個人任せであり、むしろ高所作業は専門の職人が危険な場所での離れ業を競い合っているような印象を受けます。実際に、ボイラー鉄骨を組む高温に熱せられたリベットを鉄鋼上を滑らせて投げ渡すシーンも映っていました。(しかし、安全専一のところでご紹介したとおり、1917年(大正6年)には安全第一協会が設立されており、組織的な安全管理も充実しつつあったはずです。1955年から始まった高度成長により、社会全体において安全が後回しになっていたのかもしれません)

かつての(実は今でも?)安全は『墓石安全』と呼ばれるとおり、事故が起きて犠牲者が出てから再発防止を行うものでした。大きな犠牲が伴わなければ、表面的な対策(事故の背景にはルール違反が伴っていることが多いため、当事者を処罰するなど)で済ませ、社会を騒がせるような事故が起きてから、やっと本腰を入れて対策に乗り出すようなこともありました。そして、多くの場合、ルール(手順)の追加・厳格化、ダブルチェック、再教育などが対策とされました。本書の「ヒューマンファクターズ」のところで紹介しているm-SHLLモデルにおける、S(ソフトウエア)やL(ライブウエア=人間)の対策です。視点を変えると、これらの対策は個人をターゲットにしています。しかし、これだけでは本質的な対策にはなりませんから、百歩譲って同じ事故は防ぐことができても、類似の事故はまた起きてしまいます。また、ルールの追加を繰り返すことでルールが複雑化し、それを守ることが難しくなってきます。やがて形骸化し、時間が経つと事故が再発することになります。(つづく)

 
 
 

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